木村石鹸百年史
100年つづく石鹸会社をつくった3人のナニワ商人(02)〜石鹸屋、一年生〜
12歳で家出をして、歯磨き屋に奉公、18歳で立派に独立した初代社長の木村熊治郎さん。せっかく裸一貫で立ち上げた「木村歯ブラシ製造所」をあっさりたたみ、石鹸屋を志すといいます…
現在働いている社員の中で、実は木村石鹸の歴史を知っている人があまりいない…。このままでは、その成り立ちや100年の歴史が分からなくなってしまうかも…
ミネマツ
「では、社長にインタビューして、記事におこしましょう!」
ということで社長と社長ご婦人にインタビューした内容をまとめています。
12歳で家出をして、歯磨き屋に奉公、18歳で立派に独立した初代社長の木村熊治郎さん。せっかく裸一貫で立ち上げた「木村歯ブラシ製造所」をあっさりたたみ、石鹸屋を志すといいます…
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100年つづく石鹸会社をつくった3人のナニワ商人(01)〜はじまりは、12歳の家出少年から〜
副社長
「70人も社員いて、そんなすぐ商売辞められへんやろ?」
社長
「簡単に辞められるやろと思っとったみたいやけど、労働組合と揉めて大変やったみたいやわ」
社長
「全員にぎょうさん退職金渡した言うとったわ」
ミネマツ
「これをやるんだ!と腹くくったときの熊治郎は誰にも止められませんね…」
ゼロからの石鹸づくり
※イメージ:大阪市の春元石鹸製造所(明35.12)。明治初期から本格的に国内で石鹸の製造が始まった。
社長
「そこから弁当もって、石鹸工場で石鹸の作り方教えてもろて。そんでついに木村石鹸製造所になったわけや」
ミネマツ
「おお!それが大正13年のことなんですね。」
社長夫人
「今年で93年?94年やったかな。」
ミネマツ
「当時は何を作っていたんですか?」
社長
「最初は固形の化粧石けんから始めたんや。」
ミネマツ
「おおー今の木村石鹸にはない固形石鹸!それも化粧用の石鹸ですか!」
社長
「それから上手くつくれるようになってから固形の洗濯石けん、粉の石鹸と増やしていってな。」
ミネマツ
「当時は石鹸つくるのもかなり難しかったのでしょうか?!」
社長
「機械やらなんやら何もないんやし、職人の腕だけが頼りやから、そりゃそうやろ〜」
自信作ができた、だけど認められなかった
※イメージ 道頓堀(大正3年撮影)
社長
「そんで上手に石鹸つくれるようになって、よっしゃええ石鹸ができたと思って、今でいう問屋に売りにいくやろ」
ミネマツ
(ドキドキ)
社長
「そしたら、何べん持って行っても『木村さん、あんたいくらええ石鹸つくった言うても、ほれ見てみなさいこの花王石鹸とは質が全然ちがいますわ〜』言われて。」
ミネマツ
「熊治郎〜」
社長
「そんで、次に持っていくときには、花王石鹸を自分とこの型に入れて持って行ったんやって。」
ミネマツ
「おお!」
社長
「そしたら『木村さん、何度も言うけどこれじゃあ、あきまへんわ』ってまた言われたらしいわ」
社長夫人
「中身、花王石鹸やのにね(ははは)」
ミネマツ
「さすが熊治郎、頭いいですね」
社長
「そんで、もう頭きてな。『おまえは見る目がない!買うたる言われても、あんたのところにはうちの石鹸は売らん!』言うたらしいわ(ははは)」
社長
「それから、京都の染物屋が石鹸使うてるいうのを聞いて京都まで走ってな。走る言うても当時は鉄道やけどな。」
社長
「そんで化粧石けんよりもこっちの方がええってなったんやて」
ミネマツ
「B to Bビジネスへの転換がここだった訳ですね!」
そして太平洋戦争がはじまる
ミネマツ
「会社の沿革に、太平洋戦争により廃業とありますが」
社長
「戦争で鉄やらなんやら全部国に出さなあかんかったから、会社いっこいっこではやってられへんかったんや」
ミネマツ
「それで、やむなく廃業ですか…」
社長
「いや、そんで大阪中の石鹸会社が集まって合併して一個の会社をつくるってことになったらしいけど、熊治郎はひとんとこと一緒になるくらいやったらやめる!いうて」
ミネマツ
「またもや熊治郎節が!」
社長
「どっちにしたって一人じゃやっとられへんのやけどな」
【コラム】明治と石けん
こうして木村石鹸製造所は昭和19年に廃業となったのでした。
ちなみにこの時代の石鹸産業について簡単に。日本の歴史にはじめて石鹸が登場するのは、1543年にポルトガル人が種子島にやってきてから。それから何百年もの間、石鹸は一部の特権階級だけが使う特別なものでした。
ミネマツ
「ポルトガルから伝わったので、当時は「シャボン」と呼ばれていたらしいよ!」
日本での石鹸製造技術が発展したのは明治に入ってから。明治初期には民間の工場が全国に立ち上がりましたが、まだ一般需要はないに等しかったことがうかがえます。
(中略)明治元年、長崎で開設したワルシュー・ワグナー工場は、設備・技術に何ら問題なかったにも拘わらず、石鹸の需要がなかったために損失を重ねて閉鎖に追い込まれた。(石鹸・合成洗剤の技術発展の系統化調査/中曽根弓夫)
ミネマツ
先見の明はあったのに、時代が追いつかなかったパターンはいつの時代にもあるんですね(汗)
また今からは想像できないが、当時の石鹸の品質は粗悪なものが多く、まともに使えたものの方が少なかったとか。
明治23(1890)年に第3回内国勧業博覧会が開催さ れており、石鹸の出品者は38名、石鹸出品数は327点 に及んだ。(中略)更に審査報告は、それらの化学的分析結果から品質 にも言及しており、総じて「品質精良にして、実用上、 完全と認むべきもの甚だ少なし」と断じている。(石鹸・合成洗剤の技術発展の系統化調査/中曽根弓夫)
ミネマツ
社長の話に出てくる「花王石鹸」は、外国産の高価なものか国産の粗悪な石鹸しかなかった当時、一般の人にも安価で手に入る高品質の石鹸として人気を博したんだって!
熊治郎さんは、廃業して間もなく、「わが生涯に一片の悔いなし!」とばかりに61歳で他界されたとか。
次からは、熊治郎さんの息子、2代目金太郎さんのお話です。廃業になったはずの木村石鹸、一体どうやって再びこの世に産声をあげることになるのか?!
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■参考文献