木村石鹸百年史
創業100年、木村石鹸が大事にしている「心の使い方」
3代目の幸夫さんと妻・由美子さん、そして4代目の祥一郎さんで「100年続く、親子の仕事論」というテーマで座談会を実施。親子で引き継いできたからこそ培われた木村石鹸の哲学について、3人で語り合ってもらいました。
2024年4月1日で創業100周年を迎えた木村石鹸。初代の木村熊治郎さんから、2代目の金太郎さん、3代目の幸夫さん、そして今社長を務めている4代目の祥一郎さんへと、親と子の間でバトンが渡され続けていきました。
今回は、3代目の幸夫さんと妻・由美子さん、そして4代目の祥一郎さんで「100年続く、親子の仕事論」というテーマで座談会を実施。親子で引き継いできたからこそ培われた木村石鹸の哲学について、3人で語り合ってもらいました。
(インタビュアー:土門蘭)
「自分たちはこうありたい」みんなで作った社訓
木村幸夫(父) 木村石鹸3代目社長。現会長。1941年生まれの82歳。父親の手伝いとして木村石鹸での仕事を中学1年生から始め、35歳で社長に就任。はたらく機械が大好き。趣味は電動自動車で散歩すること。 木村由美子(母) 木村石鹸の会長夫人。1946年生まれの77歳。20歳で幸夫と結婚し、以来木村石鹸で働く。会社のホームページを自身で作ったり、ブログやSNSなども活用するなど、情報発信にも果敢にチャレンジ。健康の秘訣は愛犬の散歩。 木村祥一郎(息子) 木村石鹸4代目社長。1972年生まれの52歳。大学卒業後、大学時代の仲間とIT企業を立ち上げ、18年間に渡り商品開発やマーケティングなどを担当。2013年に取締役を退任し、2016年に木村石鹸の4代目社長に就任。受託中心だった事業を変革し、自社ブランドを始める。最近はソロキャンにハマっている。 |
ー木村石鹸が100周年を迎えました。そのうちの40年間社長を務めた幸夫さん、由美子さんからは、今の木村石鹸はどう見えていますか?
幸夫:もう本当に、ええ会社や。人を大事にする会社やと思う。
由美子:雰囲気も明るいしね。若い方が多くなったし、すごくイキイキしてますね。
幸夫:小さくてもいいから、キラッと輝くええ会社になってほしい。それを目指して、ずっとやってきとったんやけどな。ほんまにええ会社になった。みんなの人間性もええし、一所懸命やってくれてるし、そういう姿を見たらいつも嬉しいよ。
由美子:皆さんのおかげです。
ー祥一郎さんは、社長に就任されてから8年ですね。継がれた時は、どんな気持ちだったんでしょう。
祥一郎:僕は、親父の代の木村石鹸がどんな会社だったかほとんど知らないんですよ。こっちに戻ってきた時も、継ぎたくて戻ってきたわけじゃないから、正直言って諦めの気持ちが大半だったんですよね。
前の会社は同年代の仲間ばかりで楽しい雰囲気だったけど、木村石鹸はベテランばっかりやし、自分のやりたいことでもないから、楽しさはもう諦めるしかないだろうなぁと。でも戻ってきたら、すごくちゃんとした会社でびっくりしました。社員の人たちみんな面白いし、真面目でいい人ばかりで……。
ただ、ベテラン社員に言わせると、親父が社長の時は相当怖かったらしいですけどね。
由美子:お父さんは厳しかったですよ。すごく厳しかった。
祥一郎:ただ、「おやっさんは、やって失敗したことに対しては何も言わへん」と言ってました。「やらへんかったらめっちゃ怒るけど」って。
由美子:そうそう。「こんなんできるか?」と社員に聞いて、「それはできませんわ」って言われると怒らはるんですよ(笑)。「なんでも一回やってみるんや。それでできひんかったらしゃあない」って言って、よう衝突してましたね。
幸夫:うん……。しかしな、うちは社訓がものすごいええと思うねん。
「家族を愛し仲間を愛し豊かな心を創ろう。
質素で謙虚 報恩の心で品性を創ろう。
チームワークを大切に笑顔で明るい職場を創ろう。
無駄をなくしアイディアを生かし真心を込めて製品を創ろう。
何事も忠実に惜しまぬ努力で実績を創ろう」
これは社員みんなで考えたんや。
由美子:みんなから言葉を出してもらって、私がそれをつなぎ合わせて文章にしたんですよ。お父さんに見てもらって、OKもろて。
祥一郎:親父は、経営理念や社訓をそらで言えるんです。そのくらい大事にしてるんですよね。
世の中ではビジョン経営やパーパス経営が主流で、僕もそういうのを作った方がいいんじゃないかなって思ったことがあったんですけど、全然自分の中から湧き上がってくるものがなくて。でも、木村石鹸で理念や社訓を日々目にしていたら「自分たちはこうありたい」ってことがもう書かれているし、これに忠実であればいいのかなって思うようになりました。みんなで協力しながら、長く幸せにやっていく。そのこと自体が大事っていうかね。
石鹸屋を始めた初代、復活させた2代目
ー木村石鹸は、1924年に幸夫さんの祖父・熊治郎さんが立ち上げられたらしいですね。
幸夫:初代の熊治郎は僕が3つの時に亡くなってるから、思い出はないんやけどな。親父から聞いたんは、もともと歯ブラシを作ってて、その後に石鹸の製造を始めたいうことや。歯ブラシちゅうのはものすごい人手がいるんやて。70人くらい女工さんがいてな、大半を海外に輸出して大きくやってたらしいんやけど、ある日突然コロッと「石鹸屋をやる!」言うて畳んだらしい。「石鹸がおもしろいんや」言うてな。
祥一郎:何がおもしろかったんやろか。
幸夫:石鹸は、油の汚れをとるものやろ。でもその石鹸も油でできとる。それを人から聞いて、「おもしろい!」って思わはったんやて。
一同:(笑)
幸夫:でも戦争で原料が入らんようなって、昭和19年に廃業して、熊治郎も戦時中に亡くなってな。僕の親父の金太郎(かねたろう)はよそさまで働いてたんやけど、そこも空襲で焼けてしもて、その後ボイラー屋で働いてたんや。ただ、そこの社長が養子を連れてきて、親父のことが邪魔になったんやろな。「これからは仕事ある時だけ来てくれ」って言われて。それで親父は怒って「そんなら辞めます」って言って、ピッタリ辞めたんや。それから2ヶ月くらい、じーっと考えてはった。
親父は、ずーっと「石鹸屋をやりたい、石鹸屋をやりたい」って思ってたんやって。それでついに「わしも石鹸を作る!」言うて再開してくれてな。僕はそん時中学1年生やったんやけど、それを聞いてものすごい嬉しかったわ。
由美子:金太郎さんは、初代の熊治郎さんが亡くなった後も、その思いをずっと持ってはったんやて。ボイラー屋の帰りに、汚れた足をいつも川で洗ってたんやけど、その時いつも親のことを思い出して「石鹸屋をやりたい」って思ってたんやと言ってはった。せやし、その思いを小さい頃のお父さんも聞いてはったんちゃうかな。
幸夫:うん。それで、僕も中学校もほとんど行かんと手伝いに一生懸命になったんや。全然迷わへんかった。親父のことが好きやったからな。
最初は小さいドラム缶一本だけしかなくて、それをレンガで詰めて釜を作ってな。そのときからずーっと親父について回って、仕事を手伝ってた。ほんまにいろんなことを教わったなぁ。まあ……昔のこと思い出したら、涙が出るわ。
―2代目の金太郎さんがお仕事で大切にされていたことは何だったんでしょう?
幸夫:子供の頃から親父には「人の役に立つ仕事しやなあかんぞ」ってよう言われたわ。「金儲けしたらあかんで」「しっかり税金を納め」ってことも、何回も言われた。
由美子:一緒にご飯を食べるときなんかに、金太郎おじいさんがお話してくれるんですよ。いつも言ってはったんが、「人間は精神だけのことしかできないんや」ってこと。せやから、いつも精神を磨かなあかんのやって。
幸夫:多分、それは熊治郎からの教えやったんやと思うわ。おじいさんの話もようしてたからね。
祥一郎:そういえば、親父の代でオイルショックが起こって、油がないと石鹸が作れなくなるってことで、石鹸屋の前にすごい行列ができたって話聞いたことあるわ。他の石鹸の値段が急激に上がる中、うちは「値段を上げたらあかん」って言うて、備蓄しているものも全部同じ値段で提供したって。
その話を聞いた時は、すごいなぁと思ったわ。儲けようと思えばできる時やけど、まっとうに商売をしたいっていう思いがあるんやなって。
由美子:その時はまだ金太郎さんがいはったから、その教えやろな。ほんまに、金太郎さんはものすごい誠実な人やったよ。それに勤勉。学校はあまり行ってはらへんけど、ダンボール箱に習字の練習したのを何箱も詰めてね。英語の勉強もしてて勉強家やった。すごく厳しいんやけど、一方で愛情が深くてね。私なんか、一度も怒られたことないですよ。
幸夫:僕もそんなに怒られた覚えがないな。厳しかったけど、人を怒るような厳しさじゃないねん。とにかく自分に厳しい人やった。社長としても厳しかったけど、やっぱりお得意さんに対して、ものすごい愛を持ってたな。金儲けしやなあかんのに、人のことよう面倒見てて。あれは不思議やったなぁ。
おじいさんの介護から生まれた「親孝行月間」
由美子:でも、お父さんが社長になって10年くらい経ったころかな。金太郎のおじいさんが倒れはって、要介護状態になったんですよ。
祥一郎:そのとき僕はまだ小学生やったな。おじいちゃんが右上下半身不随、失語症になって、家で介護を始めて。最初の2年間は、おふくろが車いすのおじいちゃんの世話をしてたな。
由美子:そうそう。介護が始まった頃は、毎朝おじいさんが車椅子で外に出て行きたがるんですよ。仕方ないから、1日ずーっと車椅子を押して歩くんです。10キロくらい、暑くても寒くてもね。だけどおじいさんは喋れないから、不満があると車椅子から無理に降りはるんですよ。それを行く人に助けてもらったこともあってね……そんなんで、ものすごい大変やった。おばあちゃんは泣き喚くし。
幸夫:いつまでこんなことしやなあかんねやろって、いつも思っとったなぁ。
由美子:その時は、会社もボロボロでね。社員が3人も4人もやめて大混乱やった。お父さんと二人で、いつも夜なべして仕事しとったなぁ。
祥一郎:家庭も会社もボロボロやったんやな。
由美子:うん、ものすごく大変やったよ。でも、金太郎のおじいさんが倒れた2年後に、道徳の勉強に出会ってね。そこで親孝行の大事さについて教わったんやけど、最初は「親に感謝する」とか「幸せを願う」とか、私にできるかしらと思ってました。最初に先生に言われたんは、「お父さんに報告連絡相談をしないとあかん」ってことでしたね。「お父さんに安心してもらうのが一番や」と。でもそんなん、もうおじいさんは認知症になっているし、言うてもわからんと思うでしょう。
だけど言われた通り、お父さんと2人でやってみたんです。毎朝、紙に今日の予定を書いて、「午前はお父さんは仕事、午後は一緒にドライブ」って見せるんですよ。おじいさん、ドライブが好きだったからね。そうしたら、急激に変わりましたよ。本当にあっという間。びっくりするくらい、金太郎のおじいさんが落ち着いてね。
祥一郎:その頃親父は社長やけど、実質、昼間はずっとおじいさんのドライブに行っているわけだよね。仕事は社員に任せて。
由美子:そう、午前はお父さんが会社行って、午後は私が会社行って。お父さんは13年間、毎日昼からおじいさん連れてドライブしてましたよ。もう地球、何周してるかわからん。その間、本当に社員さんがようやってくださった。みんなすごく優しくしてくれはって、車椅子でおじいちゃんが来るとそばへ寄って話しかけてくれたりとかしてね。そうしたら不思議なことに、会社の雰囲気も良くなったんよ。
祥一郎:おじいちゃんの介護を二人で始めたら、会社もうまく回り始めたっていうのがすごいな。
由美子:すごいすごい。それはすごいですよ。
祥一郎:介護と仕事って相反するもののような気がするけど、なんでなんやろう。
幸夫:なんでやろうなぁ。自然の法則ちゃうか。
由美子:そうかもしれへんね。雨降ったら傘をさす、寒かったら服を着るっていうのと一緒やろな。親は自分たちの伝統で、その先に祖先や、宇宙や自然があって全部つながってるわけやろ。せやから、そのつながりは大事にしないとだめなんやってことやと思う。
幸夫:そうや。お前は偉いなぁ。
由美子:(笑)。
祥一郎:社員のみんなも、信頼されてる、任されているって感じてくれたのかもしれへんね。親父もお袋も、私利私欲に走ったり遊んでいるわけじゃないし、自分の親の介護をしている姿を見たら、人ってなんとか頑張って応えようと思うものなのかもなぁ。自分や自分の親もいつかそうなりうるわけだし、親父たちが向き合ってる姿を見て、なんとか頑張ろうって思ってくれたのかもね。
由美子:そのころは「仕事をとるか、介護をとるか」の時でね。もう、仕事はできなくても仕方ないと思ってたんよ。でも、ここまで続いているのはそうさせてくれた社員がいてこそ。そこで任せられなかったら、潰れてるかわかりませんからね。
幸夫:そう。そういう思いもあって、「親孝行月間」を始めたんや。年に一度、社員全員に1万円を渡して、親孝行しなさいよっていうことやな。それはもう20年以上続けてる。
由美子:親孝行をしたら幸せになれるって信じていたからね。私たち自身が幸せにさせてもらってるから、確信があったんですよ。
ただ、親を大事にするっていっても、特別なことをするっていうんじゃなくていいの。感謝とか優しさとか、想いを寄せるだけでいい。安心させてあげられたら、それが一番。
会社のあり方が、社員の幸せに大きく関わっている
―祥一郎さんもまた、そんなご両親の思いを引き継がれているわけですね。
祥一郎:うちの両親は、めちゃくちゃ正直で真面目なんですよ。ビジネス云々の話よりも、社員と作った社訓や理念を大事にしていて、いつも「家族を大事にしよう」「感謝の気持ちを持とう」「社員を幸せにしよう」ということばかりなんです。
僕がこっちに戻ってきた時、実は会社の数字や状況があまり良くなかったんですよ。だから僕としては、社員の給与を下げたいくらいで「この売上と利益やったら、適正な人件費はこれくらいですよ」と親父に数字を持っていったら、「いやいや、もうちょっと上げたってくれよ」と言われたんです。
僕はそれに対して「いや、もう上げられる要素ないよ」と言うんだけど、「ちょっとでもいいから上げたってくれ」とそればっかり。もうロジックじゃないんですよね(笑)。結局もうしゃあない、上げざるを得ない。うちの両親はそういう「社員を幸せにしてくれ」っていう思いがすごいあって……。
幸夫:ほんますまんかったなぁ。
ー一貫して、社員さんに幸せになってほしいという気持ちがあるんですね。
祥一郎:個人の幸せを実現しつつ、組織としても機能させるって、すごく大変ですけどね。なんとかやっていきたいなと思ってます。
親孝行月間も、最初は「これどういう意味なんやろ」って思ってましたよ。違和感もあったしね。でも、やっているうちに「ああ、これは大事やな」って気づいたんです。親孝行って親だけじゃなくて、「先人のおかげで自分がある」と感謝するってことなんですよね。そういう心の使い方ってある種「技術」だと思うんです。
ー技術?
祥一郎:「感謝する」って、やらないならやらないですむじゃないですか。でも意識していればそういう気持ちって起こりやすくなるし、心の使い方が身についてくる。で、「そういう心の使い方ができる人の方が幸せなんだ」って両親は言っているんだろうなって思ったんです。だから会社として、そのきっかけを与えてるんだなと。社員のみんなが、1年に1回でも両親とかお世話になってる方に感謝の気持ちを伝える……そういう心の使い方を学ぶための一つの場なのかなって位置づけてから、結構納得して。ちゃんとやろうと思うようになりましたね。
祥一郎:僕は前職がベンチャーだったんで、そういうことはほとんど考えていなかったんですよ。「どうしたらビジネスとして生き残っていけるか、差別化していけるか」ってことばかりで、「人としてどうあるべきか」と考えたり「会社が社員を幸せにする」なんていうのは烏滸がましいと思っていた。
でも木村石鹸では、圧倒的にいろんな人やものに関わっているんですよね。容器会社さん、印刷会社さん……長い歴史や地域とのつながり、いろんな人と関わりの中で、ようやく商品ができる。そういうのを実感するうちに、親父たちの言ってることの意味がだんだんわかってきたんです。
それに、一緒に仕事をしている人や環境の影響って受けるものじゃないですか。過ごす時間も長いしね。だからやっぱり、社員の幸せに関わる大きな要素の一つに会社があるなって僕自身も思うようになって。なるべく「社員が幸せになれるにはどうしたらいいか」を考えて、会社として環境や仕組みを作っていくのが大事なんだなって……。年をとったってのもありますけど、木村石鹸に帰ってから、だいぶ仕事観が変わりましたね。
あと100年、200年、続いてほしい
ー幸夫さんは、今後の祥一郎さんに期待していることはありますか?
幸夫:なんもない。ようやってくれると思うてるから、なんにも言うことおまへんよ。ただもう「継続すること」。あと100年、200年続けてほしい。それだけやな。
由美子:継続して、皆さんが幸せに過ごしてもらえる場所になったらいいな。みんなが「木村石鹸入れてよかったな」「ここで仕事できてよかったな」って思ってくれるようなのが、ずっと続いたらいいと思う。
祥一郎:親父、最近すぐ泣くんですよ。金太郎のおじいさんのことなんか思い出すと、すぐ泣くんです。やっぱり木村石鹸を始めた頃とか、学校も行かず手伝って、大変やった時期を思い出すんでしょうね。大人になったらなったで、父親の介護しながら毎日ドライブして、自分がやりたいことを犠牲にしたことも多かったんじゃないかと思うんですけど。
お袋はお袋で、おじいちゃんの介護を13年した後にはおばあちゃんの介護をして。その後は老犬の世話もして、今は親父の世話もして……ってずっと世話しっぱなしやのに、それを結構楽しんでいろんな学びも得ているんですよね。二人とも大変だったはずやのに、そういうふうに捉えてないのがすごいなって思いますね。
幸夫:まあ、おもしろかったなーとは思うで。由美子には苦労させたけどなぁ。
由美子:いやぁ、なんやかんや言いながら、私も楽しく過ごさせてもらいましたよ。いつも今が一番幸せやと思ってます。それに、みんなが頑張ってくれてるからね。これからも、どうぞよろしくお願いします。
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初代から引き継がれてきた想い、介護の中で学んだこと、これからも大事にしたいこと。
それらは、この木村社長の言葉に詰まっているのではないかと思います。
“親孝行って親だけじゃなくて、「先人のおかげで自分がある」と感謝するってことなんですよね”
自分の力だけではなく、誰かのおかげで今がある。
それに感謝することが、一人ひとりの幸せにつながる……
100年の間培われてきた木村石鹸の行動原理は、もしかしたらここにあるのかもしれません。
「親孝行月間」は、そんな心の使い方を身につけるための一つの機会、そして表現なのだろうと感じました。
お話を聞きながら、「帰ったら私も親に電話してみようかな」と思いました。
私にとってはこのインタビューが、「親孝行」のきっかけとなりそうです。
【執筆者プロフィール】
土門蘭
文筆家。1985年広島県生まれ、京都在住。小説・短歌などの文芸作品や、インタビュー記事の執筆を行う。著書に『100年後あなたもわたしもいない日に』(寺田マユミ氏との共著)、『経営者の孤独。』、『戦争と五人の女』、『そもそも交換日記』(桜林直子氏との共著)がある。2023年4月には、2年間の自身のカウンセリングの記録を綴ったエッセイ『死ぬまで生きる日記』を上梓。同作品で第一回「生きる本大賞」受賞。
【撮影者プロフィール】
岡安いつ美
1988年茨城県生まれ、京都市在住。大学卒業後に京都市内のライブハウスに就職し、2014年にウェブメディア・ANTENNAを立ち上げる。その後ウェブディレクターとして働きながら、フォトグラファーとしての活動を開始。2019年よりフリーランスフォトグラファーとして独立し、結婚式や取材などの人物写真を中心に撮影を行う。