
インタビュー
【前編】遠回りが、お好きでしょ
「遠回りが、お好きでしょ。 ~儲からなくても面倒くさいことをする~」という題で、新調した移動販売車で地方をめぐる木村石鹸、こだわりの強い個人出版を喜んで受注する藤原印刷、閉業しかけた銭湯(菊の湯)を継いだ本屋の栞日の3社で、その胸中を語り合ったトーイベント記事です。
5月に長野県松本にある栞日さんで、新調した移動販売車 グットラックでの物販イベントと、藤原印刷さんも交えてトークイベントを実施させていただきました。
トークイベントでは「遠回りが、お好きでしょ。 ~儲からなくても面倒くさいことをする~」という題で、新調した移動販売車で地方をめぐる木村石鹸、こだわりの強い個人出版を喜んで受注する藤原印刷、閉業しかけた銭湯(菊の湯)を継いだ本屋の栞日の3社で、その胸中を語り合いました。
書き手:にしうら
遠回りなことをする3人のプロフィール
プロフィール 藤原 隆充(写真左) 1981年生まれ。東京都国立市生まれ。大学卒業後コンサルティング会社、ネット広告のベンチャー企業を経て家業である藤原印刷へ入社。企画段階から仕様の提案を得意とし、個人法人問わずアイデンティティを込めた本づくり「クラフトプレス」を全面的にサポート。印刷屋の本屋(2018)、工場を開放した体験型イベント「心刷祭」(2019)、など様々なサービスを立ち上げる。共著に『本を贈る』(三輪舎 2018年)。二児の父。趣味は読書、知らない土地へ行く、構造を考える。 木村 祥一郎(写真中央) 1972年生まれ。1995年大学時代の仲間数名とITベンチャー企業を起ち上げる。以来18年間、商品開発やマーケティングなどを担当。2013年6月家業である木村石鹸工業株式会社へ。2016年9月、4代目社長に就任。石鹸を現代的にデザインした自社ブランド商品を展開。OEM中心の事業モデルから、自社ブランド事業への転換を図る。 菊地 徹(写真右) 1986年静岡生まれ。旅館、ベーカリー勤務を経て、2013年松本市街で独立系出版物を扱う書店兼喫茶〈栞日〉を開業。2016年現店舗に移転し、旧店舗で中長期滞在型の宿〈栞日INN〉を開設。2020年本店向かいの銭湯〈菊の湯〉を運営継承。同年法人化、代表取締役就任。2023年松本市議会議員選挙で初当選。 |
菊地
今日のトークイベントの会場になっている栞日や、向かいにある菊の湯を運営している菊地と申します。
今回は、2日間大阪からやってこられた木村石鹸が、栞日と菊の湯の前で直売をしていただくという企画の一環で、同じ松本で印刷会社を運営している藤原印刷さんも含め、3社でトークイベントを実施させていただきます。
藤原
藤原印刷の藤原と申します。
今日のテーマが、菊地くんが考えた「遠回りが、お好きでしょ」というお題です(笑)
さっき、木村さんに1日目の今日の売上を聞いたら、出張経費で全部出ていってしまうくらいって言っていて。
わざわざ大阪から6時間かけて3人で移動販売車に乗って移動してきて、何でこんなに変なことをするのかなというのを木村さんにお伺いしたかったのと、菊地くんはコロナ禍に銭湯を継ぐとか面倒くさいことしかやっていないから、そのあたりを掘り下げていきたいなと思っています(笑)
木村
藤原さんも、こだわりの強い印刷ばっかりやっていますもんね(笑)
藤原
僕らも僕らで、難しい印刷ばっかりしていますね(笑)
木村さん、まずは簡単に会社の紹介をお願いできますか。
木村
木村石鹸の木村と申します。
木村石鹸は大阪府八尾市で石鹸屋をやっていて、創業100周年を迎える会社です。
僕は4代目の代表で、元々は業務用やOEM※の洗浄剤づくりがメインでしたが、今は自分たちでブランドを作って、販路を作ってっていう自社ブランド事業を始めて頑張っている途中です。
よろしくお願いします。
※OEM:相手先企業の商標(ブランド)をつけて販売される完成品や半成品の受注生産のこと。木村石鹸の場合、中身の処方のみ承る場合やパッケージなどまで併走する場合もある。
”ものづくり”に魅せられて木村石鹸四代目に
藤原
木村さんは、学生の時にネットベンチャーの会社を立ち上げられていて、家業の木村石鹸は継ぐつもりがなかったのに戻ってこられたということで、何が面白くて代表になったんですか?
木村
いやあ。ものづくりが面白かったんですよね。
ちっちゃい頃、家が会社で工場の中に住んでて、下に行けば社員さんが石鹸作っていて、それがめちゃくちゃ嫌だったんですよ。
もっとクリエイティブなことがしたいって思って大阪から京都に出て、会社に寄り付かなくなったんですよ。
でも、久しぶりに様子を見たら、ちゃんとものづくりしているんだっていうことを思ったんですよ。
実は、会社が経営不振の頃に当時代表をしていた親父から呼ばれて、僕がコンサルみたいな形で会社の立て直しをすることになったんです。
僕は、それが落ち着いたらネットベンチャーの会社に戻るつもりだったんですけど、どっぷりはまって、代表になっちゃいました。
モノもよかったし、すごいポテンシャルがあるなと思って。
ただ、OEMがメインだったし、その時ほとんど2社の取引先に依存していたんで、いい商品でもうちから交渉できずに安く売られちゃうわけですよ。
そこから、裏方製造じゃなくて、自分達で企画・製造・販売するための自社ブランド事業をやろうってなって、それも面白かったです。
藤原
自社ブランド事業の立ち上げに関しては、何か勝算はあったんですか?
木村
僕が戻ってから最初に立ち上げたブランドがSOMALIって言うんですけど、勝算があったわけじゃないですし、社員も「こんなに高いもん誰が買ってくれるか」っていう反応でした。
元々、量販店向けの自社ブランド事業を、僕が木村石鹸に戻ってくる前にやってたんですよ。
でも、卸先店舗での売れ残りの返品の山で難しいなってなってて、全然違う市場を探さなきゃいけないってなって、色んな分野を探しました。
最初に狙ったのが雑貨屋さんの市場で、それこそ栞日さんみたいなセレクトショップに、1店舗1店舗、手間がかかるけど営業に回って。
当然規模も量販店に比べると大きくはなかったですが、人の採用とかブランディングの方に生きるかなっていうのは思いつつ、その方がうちらっぽいかなと思ってやり始めました。
そこから、自社ブランド事業が少しずつ立ち上がっていく中で、何かありそう、何となくいいことを進めていくうちに、ポンとうまくいくことがある。
自社ブランド事業をやり始めて感じたことですね。
藤原
算段があったわけじゃないけど、何となくいいことをやっていると、起爆剤みたいになっていったんですね。12/JU-NIは計算があったんですか?
木村
ヘアケアとかはうちは元々開発していなかったんですけど、開発者の多胡が元々ヘアケアの原料会社に勤めていて、木村石鹸に来てからも勝手にシャンプーを開発してたんですよ。
僕らは石鹸屋なので「もしシャンプーをつくるなら石鹸で作って」って言ってたんですけど、表向きで何度か石鹸入りのシャンプーのサンプルを出してきて、その裏で自分の理想と思うシャンプーを作っていて、ある日突然全員のチャットで「すごいシャンプーができました」って。
使ってみたら良かったんだけど、流行りのノンシリコンとか、天然由来とか言えるの?って聞いたら、言えませんって(笑)
ただ、プロダクトのデザインをしてくれたデザイナーさんからは「正直さ」という所をコンセプトにしたら木村石鹸のキャラクターに合うねとなって、商品化したら結果的に当たった感じですね。
正直、12/JU-NIが飛躍のきっかけになるなんて思ってはいませんでした。
菊の湯の事業承継は「何とかします!」から
藤原
菊地くんにも聞いてみましょうか。
菊の湯を継いだ時って、うまくいく見込みがあって始められたんですか?
菊地
いえいえ、何もないです(笑)
菊の湯は100年以上今の場所でやってるんですけど、3代目が「ビジネス的に売上が右肩下がりになっていて、早めに手をひこう」っていう賢明なご判断をされていて。
それも、半年以上ご夫婦で話し合って「閉める」って判断されたんですよ。
だけど、家電販売店だった建物を、看板を残したままにしている栞日の姿を菊の湯の先代が見てくれていて。
「この建物の活かし方はすごい気になる」っていうことで、
「銭湯があったという街の記憶はそのまま、カフェとか別の業態でやるのに興味がある」「もし菊地さんだったら何をしますか」ってアイデア出しを求めてくれたんですよ。
それで僕は、先代に「いや、銭湯やりましょう!」って言って、「だから、銭湯の建物は残したまま別の業態を・・・」「いや、銭湯です!」って(笑)
藤原
半年悩んで決めたのに!?
何で銭湯だったんですか?
菊地
わかってるのか?って話ですよね(笑)
僕は僕で、向かいの栞日からずっと銭湯の姿を見てきているわけですよ。
オープン近くになると、おじいちゃんおばあちゃんたちがぞろぞろ集まってきて、井戸端会議をしながら楽しみに待っているんですね。
僕は個人的にすごい好きな風景で、あれがなくなるのが嫌だった。
でも「ダメだってわかってるから閉めるんだから、誰かに押し付けるわけにはいかないし、誰がやるんですか」ってなったから「じゃあ僕がやります」って(笑)
藤原
ダチョウ倶楽部みたいじゃないですか(笑)
菊地
それでも「こんな状況で菊地くんに渡すわけにはいかない」って、先代が経費とか売上全部見せてくれたんですね。
すると「これは確かにこのままだと無理そうだな」ってなりました。
ただ、一般的には厳しいって言われている銭湯業界で、高円寺や京都で新しいアイデアで挑戦してる銭湯の存在を知っていたので、それを参考に「ここまではいけるんじゃないか」という事業計画の数字を僕の方で整えて先代に出しました。
正直、低空飛行はできそうだったけど、釜の老朽化で2~30年に一回取り換えが必要で、その貯蓄まではできないな・・・とは思ったんですけど、今押し切らなきゃなくなってしまうと思って「いや、続けられそうです!」って(笑)
先代からは「5年後の釜の交換はどうするんだ」って言われましたけど、そこは「何とかします!」で押し切りました(笑)
藤原
「何とかします!」強い!
根拠は銭湯を残したいっていう気持ちですよね。そこが結果的に強いんですよね。
菊地
今、市議会議員もやってるんだけど、議員報酬全部釜に入れても足りないし、「何とかします!」の回答は決して議員になることではなかったです(笑)
ただ、先代に示した事業計画の中の「地域の若い世代のみなさんが、子供を連れて楽しい銭湯」ということであったり、「観光として栞日めがけてきてくださるみなさんが銭湯に入る」っていうコースの作り方はある程度イメージ通りになってるから、示したことのベクトルは実現できてるけど、矢印の強さがまだ足りないっていう感じですね。
うちがしなきゃ誰もしないから、面倒な案件も引き受ける
木村
藤原印刷さんはなんで今の小規模出版のクリエイターさんとかの、時間のかかる仕事を引き受ける形態になったんですか?
藤原
うちの会社が時間のかかる案件を受けるようになったのは、そういう仕事しかなかったからです。
10~15年くらい前の当時は、全国の小学校とかコンビニよりも印刷会社が多かったんです。
スピードと価格の勝負だったし、「藤原印刷さんは夏休みは休むんですか」とか言われてしまって。
業界構造的に、印刷会社はものすごく低く見られていた。
当時は新しい仕事を獲得することに必死で、色々と聞いている中で弟が、若いクリエイターの人たちから「こういうものを作りたいんだけど、印刷会社が面倒くさがってできないんだ」と聞いたので、「だったらうちがやります!」っていうのが最初でした。
今はクリエイターさんやはじめての本づくりの方の仕事の割合が3割ぐらいあるんですよ。
でも初めは、本づくりをしたことがない人たちに対してゼロから伴走できるっていう状態になるなんて全然見えてなかったんですよ。
木村
工場の人たちは嫌がらなかったんですか?
藤原
現場はどちらかというと楽しそうで「こういう面白い仕事やってみたいと思ってました」って言って研究開発するような心持だったと思います。
ただ、めちゃめちゃ管理職は嫌がっていました(笑)
コストをみている人は「どうやって利益出すの?」って。
1時間ぐらいの稼働の仕事がメインだとすると、クリエイターさん向けの仕事って7時間とか平気でかかるんですよ。だから、現場の工数がかなりかかる。
木村
管理職の意識が変わった瞬間とかってあるんですか?
藤原
やっぱりある程度数字が重なってきたからですね。
最初に時間のかかる案件を受けていたのが僕の弟だったんですけど、営業チームで弟だけ出版社一つも持っていないのに数字がぐんぐん伸びてると「なんだこれは?」となって。
「新規の案件で1億やる」と勝手に言ってたんですけど、出版社のリピートでもないし、本づくり初めてで個人再販もあんまりないから無理だとみんな思っていて・・
でも弟は、宣言通り1億いったんですよ。
さっきの木村さんの話と近いと思うんですけど、個人で作る本ってボリューム大きくないし、1年間で営業マンが持ってる件数って出版社だと200-300くらいあるけど、弟が最初にやっていたときは700件くらい(笑)
でも、今は件数だけじゃなくて単価自体がめちゃめちゃ上がってる。
そういう流れから、管理職も納得していきましたね。
〉〉後編に続く